第11章 殺人者の責任を問う
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違法性の問題は、どれほどの非難に値するか、または、どれほどの因果応報に値するかという倫理的問題
しかし、そのような価値判断がいったいなにを意味しているのかに関する分析は、大量な文献に表されており、議論のまとになっている
刑罰を使用することの倫理的正当性に関する哲学的議論
効用の立場は、基本的に、刑罰には全体として見た時に正の効果があるから正当化されるというもの
殆どの効用論者によれば、復讐それ自体は「原始的」で「野蛮」な衝動であり、そのような衝動は乗り越えなければならないもの
報復論者は、赤裸々な効用論は、ささいな犯罪に対して過剰な刑罰を課すことを許し、それが有効であるならば、無実のものを罰することも可能とされるような恐ろしい考えであると反論する
彼らによれば刑罰はそれ自体がよいものとみなされるべきであり、それ以外の望ましい結果を得るための手段であってはならない
それがよいものであるのは、それが応報であるときだけ
このテーマに関しては、限りなく様々な視点から論ずることができる
非難可能性の進化的考察
進化心理学者にとっては、これらの哲学的議論は、本当に分析するに足る問題を迂回しているように思える
倫理の感情は通文化的にどこでもみられる人間の本性である どんな分析哲学者も、倫理的判断は、それ以下には還元することのできない、善と悪の認識に究極的には帰着することを認めているのだが、何が正義であり、何が正しいかを自らに問いただすときには、人の心理の中の、倫理的/感情的/認知的メカニズムに訴えかけていることになる
これらの心的メカニズムは進化の歴史の中で形成されてきたものに違いない
われわれの倫理観が、他のなんらかの認知能力に付随して二次的に出てきたものであるとはとても思えない
もしも、良心と感情移入の能力とが自己利益の追求に反するものであったならば、われわれに倫理感情があることは、自己利益を否定する態度を表しているとみるのではなく、われわれが進化してきた過程での社会環境において、適応度を高める役に立ったのだと考えてはじめて、われわれの倫理感情を理解できるようになるだろう(Alexander, 1987; Tooby & Cosmides, 1988) 倫理観とは、例を見ないほど複雑な社会状況において自己利益を追求するための装置であり、例を見ないほど複雑な認知能力を持つ動物に備わったものである
二者間の競争関係においてのみ社会的葛藤を解決する動物は、侮辱に対して特別に「倫理的な」異議申し立てをする必要はない
雌ジカの前で闘っている雄ジカのように、たとえ関心を持っている第三者の前で闘っていたとしても、彼らの対立の善悪を考えねばならない理由はない
どんな場合にも力の強さが問題であり、第三者にとっても唯一の興味は、どちらが力が強いかのテストの結果
倫理に訴えるのが妥当となるのは、連合関係や評判というものが絡む、もっと複雑な社会的環境であり、社会契約と、規則と、その社会契約に従っている者たちが協力して裏切り者を罰するようなことのある社会(Cosmides, 1985) 悪があり、そして善があるためには、利害の不一致が存在することが必要条件である
しかし、ある程度の利害の一致もなければならない
倫理とは、自分自身の行動の選択が正しいとするためには、自分の利益のみならず、他人の利益をも抑えることになるもの
もしも倫理観が効用論的な自然淘汰の基準にしたがって進化してきたものであるならば、行為者以外の利益のためになされるようにみえる行動は、しばしば、道徳的行為者自身の利益の結果をもたらしたに違いない
このような跳ね返りは、血縁関係または協力的互恵性に由来する、利益の共有に依存している
いくつかの可能な行動の選択肢それぞれの適応的利益を評価するには、人は、複雑な認知能力を備えていなければならない
例えば、正直であるという評判は長期的な利益に繋がり、そういう評判があれば、好ましい社会的交換の相手と思われるかもしれない
良心とは、おそらく、そのような自己利益の抑制を可能にさせるメカニズムとして進化してきたのだろう
公共の利益に訴えることは、しばしばこのような自己利益の抑制を標榜しており、そのためには道徳的な言葉が使われる
そのような訴えかけの中には誠実なものもあるが、欺瞞的なものもある
そこで、有効な手段の一つは、欺瞞的な訴えをあたかも誠実なものであるかのように見せかけること
何らかの公共の利益を自己利益よりも高くおいているようにみせかけ、そのような道徳的な高みから、他人も同じようにするべきだと要求するやり方
社会契約を正しく行っていくには道徳が必要だと言うことを考えると、人々が、競争状況において、自分に有利に事を運ぶために、道徳それ自体を武器として使うことを発明したとしても不思議はない
もし、このとおりであるならば、精密に測られた報復をそれ自体でよいものとする正義の報復的感情は、人類全体や世界全体の福祉などの「公共の利益」のためではなく、その道徳を標榜する人間自体の利益のためになる、究極的には「効用論的」なものということになろう
表面的には二つの哲学上の代替仮説であるかにみえる報復論と効用論とは、分析のレベルが違うだけのことであると考えられる
報復論者は、どんなことに正義が感じられるかという、道徳的/認知的/感情的メカニズムの進化的産物を問題にしている
効用論者は、なぜそのような心的メカニズムが進化してきたのかを説明しようとしている
刑罰に関する哲学的考察の中でことさらに難解な要素は、悪者を罰すると世界の不均衡を是正するということに、意味があるかどうかという議論(しばしば神学的匂いをともなう)
われわれが、罰を与え、罰を与えねばならず、罰を与えるべきであるのは、そうすることによって、「悪を消滅させ、正義を明らかにさせる」からだと論ぜられる(Bradley, 1927) 進化心理学の視点からすれば、このような神秘的で還元不可能なタイプの道徳命令は、単純な適応的機能を果たすように進化した心的メカニズムが生み出した産物
それは、精密な計算にもとづいて正義を判断し、罰を与えることによって、規則を破ったものがその悪行からどんな利益をも摘み取らないようにすること
要は、自己利益に基づく競争的な行動を、そうしても利益が上がらないようにすることによって、抑えようということ
悪行は「負債」を作り出すという考えは、明らかに資本主義以前から存在する
資本主義であれなんであれ、大きな国民国家になってから初めて、国家が被害者と原告の立場を取り上げてしまったために、「罪に対して支払いをする」ことが、被害を受けた側に対して賠償を支払うことの意味合いが消失したのである
もしも、違法性が、加害者の被害者に対する負債を反映したものであり、悪事を量的に測って、物事を正常に戻すために必要な賠償の額を測ることを反映しているのであれば、違法性は、被害者がそういう運命に合うのも当然であったかどうかということによって軽減されるだろう
そこで挑発の概念が登場する
被害者の以前の行いのあるものは、少なくとも非難可能性を減少させるという、どこにでもみられる原理
いくつかの挑発のカテゴリーは、ほとんどすべての文化において、反撃の暴力を使用することに何らかの正当性があると認められている
自分自身または自分の近縁者に加えられた肉体的暴力、盗み、妻の姦通、そして名誉毀損
これらの挑発のいずれも、された側の利益、ひいては究極的な適応度に対する脅威となっている
挑発の概念は、道徳理論と心理学的理論の双方で二つの役割を果たしていることになる
挑発は反撃行動を正当化するが、反撃行動の原因でもある
「冷静に」行われた殺人の方が意思の働きが強いので、凶悪だと考えられ、これが本質的に「第一級殺人」とその他の殺人とを分ける基準
イギリスの普通法では、遊三愛と認められる犯罪を構成する定義としての基準は二つある
犯罪には違法行為(actus reus)がなくてはならず、また犯意(mens rea)がなくてはならない
どちらか片方だけでは罰せられることはない
悪意と魔術について
犯意の基準は、犯罪者に意図があったからこそ刑罰に値するとさせるものであり、法律家も倫理哲学者も、そうでなくてはならないと主張する点では意見が一致している
本質的にわれわれは、彼らが自分自身の利益を過大評価し、他人の利益を過小評価することを非難している
道徳も法律も、社会の平和のために利己性を抑えることを問題にしている
それ以外の原則で動いている法的、道徳的システムはないのだろうか
倫理感情はヒトという動物が進化によって身につけた性質であると論じることは、通文化的な一般性があるということを仮定している
道徳体系が「文化」であるという意見にはなにも反対するところはないが、だからといって、道徳は無限に変化するものであるということにはならない
問題は抽象化のどのレベルで、異なる道徳システムの底に動いている一般的な心理的基盤を見出すことができるか
しかし人に責任を負わせるときに、意図にどれほどの注意を払うかということになると、直感はそれほど確固としたものではなくなる
人に責任を負わせるにあたって、人々がどこでも意図の問題が妥当と考えてきたかどうかは、実証的な問題となる
人類学者の中には「未開の」法律システムでは、意図は問題にならないと主張している人々がある
しかし、イフガオの法律をもっと詳しく分析したバートン(1919)は、それがもっと柔軟性に富むシステムだと述べており、たとえば、狩猟の最中に起こった事故死には、被害者の家族が加害者側に悪意のなかったことを納得すれば報復はともなわない 意図が問題にならないのは、殺人者にもたらされる利益が、悪意があったことを推定させる証拠となっているときだけ
柔軟性のない規則からなる法律にみえても、実際の事件に応用されるときにはプラグマティックな援用がされることを示す同様な例は多く見られる
我々自身の法体系でも同じ
問題とされているのが刑罰ではなく賠償である場合には、意図は手続き上無視されることもある
被害者の家族は自分たちに落ち度がないにも関わらず損害を受けたので賠償をもらう権利があるという論理
ここで負わせられる責任は違法性(道徳的誤り)ではなく、責任(道徳的義務)である
ある種の救済法は、このジレンマを意識し、損失を分散させようとしている
多くの部族社会は意図を無視しているどころか、我々なら意図を見出さない場合にさえ意図を付与しているようだ
民族誌によくでてくる主張は、事故というものを信じておらず、すべての不幸、特にすべての死は、人々の悪意に発すると考えられているというもの
誰が悪いのかがわからない場合には、それを引き起こした魔女や呪術師を見つけるために、占いが執り行われる
魔術や呪術のせいにする人々は、しばしば、因果関係に関する人々の無知を利用して、法的に正当な報復に見せかけて自分自身の敵意ある目的を追求しようとしている
クナフト(1985)は、低地ニューギニアのゲブシは、自分自身の義理の親族を有意に多く告発するが、とくに、それは、結婚の交換の義務を果たしていないことで、自分たちが恨みを持っている義理の親族たち 告発されたゲブシの呪術師はしばしば処刑される
呪術による告発は「無知を利用している」と言ったのは、マキャベリ的権謀術数を意味しているのではなく、告発者は自分自身の利益によって流されているという意味
しかしながら、告発の中には、わざと間違ってしているものもある
たとえば、フォンテーヌ(1963)に記されているギス(東アフリカ)の例では、病気の娘の父親が「義理の親族を呪術で訴え、その訴えは彼の父系親族の支持を得ていたが、個人的には、だれもが、その父親は自分の利益のためにやっていると認めていた」 占いは、争いの調停と同様に難しい仕事
占いを行う人物は、自分のところに相談にきた人物の敵はだれであるのかを知っているか、発見せねばならず、また、だれならば非難しても安全かを知っていなければならない
しかし、もっと繁栄していて妻の数も多く、嫉妬部会隣人たちよりもいろいろな意味で成功している人物が告発される社会もある(たとえばBeidelman, 1963) そのような社会では、呪術の告発は、個人的な野望や見せびらかしに対する歯止めとなっている
首長やその他の人物は、しばしば、魔術が使えるという噂で利益を引き出している
マイケル・ギゼリン(1974)が述べているように、ヒトの脳と心は、「自分自身のための真実を認識するようにできているメカニズム以外のなにものでもない」 ヒトという動物は、なぜこうもやすやすとそのような説明をしたがるのだろう
「われわれの神経系は、われわれの生殖器の利益のために働くように進化した」
われわれが他人の心を自分の心と類比させる感情移入の能力をもっており、それによって他人の行動を予測することができるということには、たしかに明らかな効用がある
われわれが自然を擬人化し、その意図をどこにでも読み取ろうとする傾向は、この能力に付随する、意味のない現象なのだろうか
この説が特にあたっているという感じはしないが、われわれは、進化的認知心理学を発達させるという仕事に注意を向けたい(Cosmides, 1985) われわれ人間がなぜ超自然的な説明を好むかを説明することは、人間がなぜ推論アルゴリズム、または「発見的論法」を非常に理解しにくいかという問題と関連している(Nisbet & Ross, 1980) 精神異常の申し立て
悪事を行った人間に意図があったとすれば、その人を非難し責任を負わせることができるというのは、世界中どこでもそうであるようだ
もっとも凶悪なのは、故意に悪事を働いた者、「自由」な人間が悪い行為を「選択」したときであると考える
彼の仲間からなる陪審員は、精神異常であるという理由で無罪にした
世論の反響を呼び、最終的に貴族院は、精神異常の申し立てを扱う原則を裁判官たちが明示するように要求して問題を解決した
マクネイトン法は次の世紀に英語圏すべてにわたって精神異常の問題を統制することになる 「精神異常による申し立てを確立するためには、告訴された者は、その行為を行った時点において理性が働いていなかったか、精神病であるか、自分の行っている行為の性質と様相を理解していなかったか、または、理解していたとしても、それが違法であることを理解していなかったということを、明確に証明せねばならない」(Walker, 1968) これは、世論の反感の圧力のもとで作られた、落とし穴のいくつもある人間的な文章なのだが、あたかも神の啓示ででもあるかのようにすみずみまで分析されてきた
この法律は、大きな変革をもたらすというよりは、それまでなされてきた慣行を明文化して正当化する試みであった
8世紀のヨークの大司教エグバートによるとされている、アングロサクソンの法律
「もしある人が正気を失って他人を殺した場合には、彼の親族が被害者に賠償を払い、殺人者自身はそのままにするべし」(Walker, 1968) 責任問題の焦点は、賠償の義務にある
精神異常者が自分の行為に責任を持てないのであれば、誰か他の人が持たねばならない
責任と違法性に関する概念からこのような実際的なエッセンスが失われたのは、犯罪の犠牲者が権利を剥奪された国民国家社会になってからのこと
しかし、狂気という理由で責任を免れてよいということを、どうやって同定したらよいのだろうか
率直な精神科医は、法律が定義するような意味での精神異常性に関して専門的な証言をすることはできないことを認めており、それゆえ、法律を改正するように、弁護士たちとともにいろいろな努力を行っている
イギリスから受け継いだ普通法の中で、マクネイトン法の改正はつねに多数意見だった
1950年代には、アメリカ法律研究所(ALI)が規範となる刑法規約を提案し、その後の20年のうちに、これは徐々にすべての連邦裁判所とほとんどの州裁判所で採用されるようになった
ALIの基準では、犯行の理解に欠けていたというよりは、精神異常の犯罪者は、「自分の行いの違法性を理解する十分な能力」または、「自分の行為を法律が要求するものに即して行う十分な能力」が欠けていることを示せねばならい
後者の基準は明らかに、強制されて行った行為は違法性を問うことができないということと、意図を持って行った行為は違法性を問うことができるということとを区別しようとする試み
しかし、精神科医は、被告が犯行の違法性を認識していたかを判断する以上に、「法に即して行動する十分な能力があったか」を判断する基盤を持っていない
アメリカ精神科医学会もアメリカ医学会もともに、1982年に大統領暗殺未遂のジョン・ヒンクリーが精神異常という理由で無罪になったあとの大騒動の結果、ALIの基準を結局は放棄することになった
アメリカの精神科医たちは、犯罪者が自分の行為の違法性を理解していたかどうかに関する精神医学的な証言の方が、犯罪者が自分の行動を制御する能力があったかどうかの証言よりも信頼が置けるし、より強力な科学的根拠があると主張した
精神異常に関する法的基準をこのように変えようとする人々は、つねに、彼らの目的は法的基準を現代の精神医学の知識と合致させるようにすることだと主張している
それでも、改正はつねに堂々めぐり
行動科学は、本質的に決定論的な仮定をおいているので、法廷で問題になるような道徳的問題をとりあげることができない
「端的に言えば、抑止不可能な犯罪者と、たんに抑止されていない犯罪者とを、止めることのできない衝動と、止められなかった衝動とを、能力が十分に失われている場合と少しばかり失われている場合とを区別する、客観的な基盤は存在しないということである」(Bonnie, 1983) 尊敬される科学の地位を得るためには、精神科医たちは、行動の因果関係の問題に決定論的立場をとらなければならない
すべての行動は、少なくとも原理的には、知ることのできる原因を持っている
それができないのは、たんに、現在のところそのことについて無知だからである
アメリカ精神科医学会(1982)の、精神異常に基づく弁護に関する立場表明(Johnson, 1985)は、この科学的世界観を認めている 問題なのは非難可能性であり、それは道徳的概念
精神科医が「科学的」であるという主張を受け入れるならば、彼らは非難可能性について発言する特権を持っていはいないことになる
行動の原因については述べることができるだろうが、行為者の行動に対する「責任」について専門的な発言をすることはできない
精神異常の理由でだれが無罪になるか?
ほとんどの英語圏の法廷では、精神異常による申し立てが認められると、通常の無罪判決となる
「精神異常の理由で無罪」(Not guilty by reason of insanity; NGRI)
その判決で放免されることはめったになく、正常と認められて有罪となった時に受けるだろう最高刑よりも長く収監されることもある
NGRIは、アメリカ合衆国ではあまりない判決
1983年の精神異常の申立に関する国家委員会報告書によると、ニューヨーク州で重大犯罪できそされた600から700人に一人ぐらいしか、精神異常の申し立てをしておらず、そのうちおよそ4分の1ほどしかそれが認められていない
1980年のマイアミでは、569件の殺人の454件が解決したが、そのうちの6件がNGRIで、さらに2件が裁判に不適ということで勾留されている(Wilbanks, 1984) 1974年から1983年のカナダでは、5994件の殺人事件で6559人が殺された
そのうちの4973件が解決されたが、そのうちの361件では判決前に犯人が死んでいる
残る4612件の解決した殺人事件のうち2892件が有罪確定し、そのうち263人が裁判に不適またはNGRIということになっている
カナダの殺人における被害者と加害者のさまざまな関係の全体に対する割合を、すべての殺人と、犯人が自殺したケースと、犯人が異常と認められたケースとで比較する
もちろん、近縁者を殺したからこそ、精神異常という理由が持ち出されたのかもしれない
たとえば、犯人が異常と認められることと、犯人が自殺することとの間には類似点がある
殺した自殺することは、精神異常の診断の兆候である、理性の喪失または自己利益の放棄を反映しているようにみえる不毛な行動
警察は、このような事件をカナダ統計局に報告するにあたって、どちらのケースでも、「精神障害・精神遅滞」という分類を好んで使う
しかし、自殺は間違いようのない行為であって、主観的なレッテルづけではないのだが、特定のタイプの事件で犯人が自殺する例が、精神異常の判決の例とどれほど似ているかは、驚くほどである
ここで言いたいことは精神病の兆候がある人間はとくに殺人をしやすいということではない
このような比較をしたのは、精神異常者が殺人をするときには、正常な殺人者がするようには、近縁者を区別することはないということを示すことにある
異常な心理に関するこの進化心理学的視点は、犯人がとくに自殺しやすい事件や、精神異常と判定されるだろう事件を予測することに使える
どちらのカテゴリーの殺人がより明白に犯人の適応度上の利益に反していようと、どちらのほうがより激しい狂気であろうと、そんなことはめったに起こることではなく、もしも起こったときには、犯人の自殺か、精神異常の判決で終わる事が多いだろう
その明白な例は血縁者殺し
血縁者を殺すことは、非血縁者を殺すことよりも異常であり、予測通りそれは比較的まれで(第2章 血縁者に対する殺人)、比較的よく犯人の自殺や精神異常の判定に導かれる その他の比較からも同様のパターンが得られる
自分の実子を殺すことは、義理の子を殺すことよりも異常であり、その機会から相対的にいってまれである
カナダで実子を殺した者322例の20%は自殺し、11%は異常と認められたが、義理の子を殺した59例のうち自殺したのは10%であり、異常と認められたのは一人だけだった
年齢が上の実子を殺すことは、嬰児の実子を殺すよりも異常であり、実際、ずっとまれである
カナダで嬰児を殺した親126人のうちのたった5%が自殺し、たった6%しか異常と認められていないが、もっと年上の子を殺した196人のうちの30%が自殺し、15%が異常と認められた
最近のイギリスでは、すべtねお殺人者の半分より少し多いくらいが精神異常と認められており、北アメリカに比べて異常に多い
イギリスでの全体的な殺人率はアメリカのそれよりもずっと低いので、精神異常の事件の割合が高いとしても、精神異常者による人口あたりの殺人率がとくに高いわけではなく、正常者による人口あたりの殺人率が非常に低いだけ
各国の統計を比較すると、精神異常と認める判決の割合が相対的に高いところでは、比較的殺人率が低く、その逆も成り立っている
そこから読み取れるのは、精神異常者による殺人の人口あたりの率は比較的一定であるが、正常者による殺人率は、文化によって大きな影響を受けるということ
限定責任能力
行動の因果関係の問題と、行動の意志と責任の問題とを混ぜてしまうと、「限定責任能力」という倫理的、哲学的パンドラの箱を開けてしまうことになる 法律家は、行為を、自由意志にもとづいて行われたものと、強制されたものに二分化することを有効なやり方だと考えるかもしれない 道徳家も、善と悪をはっきり分けたがるかもしれない
しかし、このような二分法は、どんな人の責任の理解にも対応していない
世界中どこでも、人々は非難可能性を程度の問題として理解しており、意識して自由に行った選択と強制とを一連のものとみなしている
有罪と無罪を二分する分類をするにもかかわらず、刑法はしばしばいろいろな事柄が道徳的判断を曇らせたり、自由意志を弱めたりして、責任能力を限定させることになるという議論を持ち出す
この考えは、進化によって形成されたわれわれの正義感に訴えるところはあるが、現在のところ有力である倫理の絶対性とは対立する政策を正当化することに使われている
限定責任能力は、数々の理由のもとに主張することができる
挑発、アルコール
しかしながら、自分で処方した薬物の影響下にあるときの行為には責任を保持すると主張する前例もある
しかし、問題の薬物が予測不可能な効果を生み出したとしたらどうだろう
悪名高い「トゥインキー弁護」(ジャンクフードに入っていた添加物のために精神状態が不安定になっていたと主張)はどうか
結局の所、「責任能力」を「意志」に帰着することのできる因果関係で解釈するならば、新しい予測因がわかるごとに、意志の力を非難する余地は少なくなっていく
しかし、因果関係について知識が増えていくごとに責任の問題を侵食していけば、二つの考察の領域を混同し、非常にこっけいな不正を生み出すことになる
たとえば「月経前症候群」は、ある種の女性には本当に暴力をもたらす原因になっているかもしれないが、だからといって、男性が自分が男性であることを理由に抗弁することと同様、そんなことは抗弁を構成しない なぜ貧乏やその他の社会的不利益は罪の軽減の理由にならないのだろうか
トゥインキーやどんな精神病よりも、貧困の方が暴力を引き起こす証拠はたくさんある
行為者が過去においてどうふるまうことができたかもしれないかという問題は、決定論的な行動科学の枠外だが、人の将来の行為が罰と報酬によってどのように変容可能かということは、この枠内になるかもしれない
人々は、このように行動が変容可能であることを、責任の概念と混同する傾向がある
すなわち、罰の脅しによって抑止可能であるようなものは、すなわち強制的なものではなく、それゆえに自由意志にもとづくものであって、悪意があるならば非難可能であるということ
このような因果関係と道徳判断の混同は分類の誤りであると論じたばかりだが、自分たちの仲間を扱う上では実際的なやり方であるかもしれない
我々は、矯正可能(操作可能)と思う人間たちを罰する(責任を問う)
そうでない人たちは、道徳的なあれこれなしに、たんに拘束する
罰は罪に見合っているか
道徳や非難可能性を現象として、人間の現象と(進化的)心理学の問題として研究することができる
道徳が、利害の対立がある状況における社会的制約での互恵的役割にせよ、社会的競争における武器としてであるにせよ、社会的交換における効用の点から理解されるべきものであるならば、明らかに加害者の自己利益に資するようになされた道徳的犯罪こそが、特に非難されるべきものとなるだろう
他人の利益を破壊し、かつ、自己の利益のたしにならないような行動をすることは、裏切りではない
イフガオの狩猟者が仲間の矢によって誤って殺されたときには、被害者の親族は、被害者が殺されたことで加害者に何らかの利益が生じたかどうかを考慮し、復讐するかどうかを決定する(Barton, 1919) 精神異常の加害者が「無罪」とされるときにも、同じ論理に従っている
われわれが利益と考えるような利益が、殺人者にもたらされることがあれば、犯人が精神異常の申し立てをしても疑わしいと思うだろうし、もっと報復的な立場を取るだろう
違法性と責任の問題は、被害者と加害者が血縁であるときには、特別に厄介になる
自分の血族を殺す者は自分自身を傷つけているので、通常の罰則が適用されないと理解することができる
近縁者を殺した者の有罪性は問題を多く含んでおり、犯人は、被害者でも加害者でもある悲劇の人物として憐れまれることはあっても、罰を受けることはなく集団に住み続けるのは、決してまれなことではない
進化心理学的視点からすれば、問題は、近縁な親族間の利益は本質的にからみあっているということにある
普通ならば原告となるところの被害者の親族は、加害者の親族でもあるので、加害者が被害者を亡き者にしてもよいと思った感情を共有しているかもしれず、また、二重の損失を被るよりは、敵意を引っ込めて犯人を許してやろうという気になるかもしれない
まだ元気で役に立つ親族をけんかで殺した者は、自分の適応度の媒体を破壊したのであり、そこから利益を得る可能性は低い
利益を目的とした殺人ではないことになり、それゆえ、さらなる損失を付加することによって抑止しなくてもよいことになる
非難に値しないという、この一般的な規則に対する異議申し立ては、近縁関係があろうとなかろうと、殺したいという深刻な誘惑があると考えられた場合
たとえば、狩猟採集民や焼畑農耕民の間では、家族の財産をめぐる競争は少なく、凶暴な親類の男性がいることは、男性の基本的な財産であるが、そこでは父系の親族に対する殺人は非常にまれであり、罰せられることもない
一方、家族の財産があり、それをめぐって競争があるような定住農耕民では、父系の親族に対する殺人はかなりあり、より厳しく罰せられている
罪を償わせようとすることの究極の機能が抑止にあるのならば、誘惑の強い犯罪に対するほど、非難をし罰しようとする欲求は強くなると考えられるかもしれない
被害者と加害者との間の一連の関係の中で、両者の間で共通する利益が減るほどに、罰しようとする度合いは増えると予測される
実際、カナダにおいて刑を要求するときの心理は、まさにこのモデルに即しているようだ
求刑が行われたすべての事件のうちで犯人が懲役10年以上の求刑を受けた場合の事件の割合を計算すると、この割合は血縁関係が遠くなり、両者の間に共通する利益が少なくなると考えられるほど高くなる
父親または息子を殺した犯人のうち13.6%が10年以上の求刑を受けていたが、兄弟を殺したものでは15.2%、それ以上に遠い血縁者を殺した者では20.0%、婚姻関係を殺した者では29.6%、知人・友人を殺したものでは34.9%、まったく見知らぬ人を殺したものでは50.4%であった
見知らぬ者を殺した犯人に対する求刑が厳しいのは「犯罪指向的」殺人への影響が現れていると考えられるかもしれないが、そのような殺人が10年以上の求刑を受けること(53.7%)は、そうでない場合の見知らぬ者殺しのとき(47.2%)よりもほんの少し多いだけ
一つの関係の内部であっても、罪が非対称であることも、殺そうとする誘惑が非対称だからと考えれば理解できる
刑罰にも非対称がみられると予測されるが、事実、そのような非対称はごく普通にみられる
たとえば、ローマ法では、父親が息子を殺すのは父親の権利であってまったく刑罰の対象にならないが、息子が父親を殺すことは極刑に値する反逆だった(Jolowicz, 1932) 法律を作っているのは老人であるという事実からも同じ予測を立てることはできるが、自分の息子を殺した父親は悲劇的な人物であって、非難されるよりは憐れまれるという事実は残る
第10章 殺しへの仕返しと復讐でみたように、殺人に対する適切な賠償を決める上で通文化的に考慮される材料は、被害者の「価値」であり、すなわち、遺族がどれほどの損失を被ったか 贖罪金は、殺された者の性別、地位、そして有用性に依存している
実際、伝統的な法の中には、女性の繁殖価に応じて異なる賠償金を定めているものがある
脱個人化した国家における裁判でも、被害者の命の価値を差別的に判定している可能性があることを示している
配偶者殺しのうち、懲役10年以上の判決を受けたものの被害者の年齢別比率を見ると、カナダでは、妻を殺した時の刑罰は妻の年齢とともに減少しているが、夫を殺した時の刑罰は夫の年齢とともに増加している
もちろん、他にも多くの説明がつけられるだろう
犯罪の性質が、それぞれの年齢グループごとにシステマティックに異なるので、そのために刑罰が異なるというもの
しかし、顔のない社会のメンバーが、なぜ、殺人者にどれだけの刑罰を科さねばならないかについて、強い意見を持つことがあるのだろうか
われわれはだれでも社会契約を維持していくことに対して既得権益をもっているから、ということにほかならない
われわれの個人的利益を節度をもって追求し、裏切るものを罰することに対するコミットメント
いhとびとが自分自身を潜在的な被害者だと感じるからであり、そのような殺人は、意志を持って行われたものであり、したがって抑止も可能だと感じるからなのだろう
強姦や強盗の最中に行われた殺人は、明らかに個人的な葛藤の解決ではなく、完全に無辜の人間を被害者としたものであるので、特別に凶悪なのである
刑事法システムが行うことは、凶悪さに関するこの大衆的な見方と極めてよく合致しいる
1974年から1983年までのカナダでは、見知らぬ女性に対する強姦殺人犯人の77%、強盗殺人犯人の56%が懲役10年以上の求刑を受けているが、社会的葛藤の中で既に見知っている人間を殺した犯人では、それは29%にすぎない
社会契約の枠外にある人間を殺しても、まったく罪にならないだろう
歴史を通じて、ほとんどの人間社会では、外国人を殺しても非難はされなかった
戦争は殺人が罪にならずに褒められることとなるように社会的に定められた共同行為